日々是漸進~ヒビコレ~

役に立ったり立たなかったりすることを書く

オシャレな文章を書きたい、という話。

このエントリーをはてなブックマークに追加

おしゃれな文章を書きたい。そう思う。

本当ならば、「おしゃれな文章を書きたい、そう思い筆をとった」こう書く方がおしゃれである。

そもそもおしゃれとは何なのだろうか。 「お洒落」は「戯る(さる)」から転じたものだと言う。

たわむれ、遊び心があることがおしゃれの要件なのだ。

このデジタル化の甚だしい時代、スタバでMacでカタカタ文章を打つよりも、ふと万年筆を手に取って大学ノートに心のままをツラツラ書き連ねる、そこにおしゃれな文章はうまれるはずである。 「制服は着崩すとおしゃれ」などという。これも遊び心が感じられるからおしゃれなのだろう。だがみんなにおしゃれと認められ、みんなが制服を着崩し始めたらどうだろう? もはやそこに遊び心はない。

安易な模倣。 オリジナルにしかおしゃれ要素はなく、遊び心よりも世間におしゃれと認められたいという人間の欲求からくる「外し」はおしゃれではない。

ここにきて早くも行き詰まる。

自分はなんなのか…?

「おしゃれな文章かくあるべし」と決めつけてスタバでMacをカタカタ打ち、そもそもブログを始めるのも友人の模倣である。救いようがない。 これはだめだ、もう僕は文章においておしゃれのステレオタイプにとらわれすぎている。

ここは造詣が深くない文字媒体の分野で攻めよう。俳句は季語をしらないな。やっぱサラダ記念日的なのおしゃれだよな。あっ…またステレオタイプだ。

ふと、翻訳論などによく出てくる翻訳の不完全性について考える。「I love you」→「月がきれいですね」のアレである。

これが名訳か誤訳かはおいておいて、そもそも考えや思いの言語化って翻訳と本質的に同じではないかなと思う。 その意味で、自分の考えや思いの「名訳」は文章よりは詩とかに多いんじゃなかろうか。それはつまり言語的に表したいオリジナルに近いということだろう。

そんなことを考えつつ今日の一首

緑地には幼子リーマン老夫婦日本のミライは神のまにまに

おしゃれブログ、ほど遠きシャングリラである。