日々是漸進~ヒビコレ~

役に立ったり立たなかったりすることを書く

超村上春樹論

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村上春樹は凄い作家である。おそらく音楽でいうロックのようなものだ。

ある年齢以上の人には全く理解されない。時代の要求に応え生まれ、しかしやがてただの若者の娯楽となる。

芥川賞の選考で文壇の重鎮に酷評されたのは有名な話だ。

村上春樹の小説もそんな時代性を強く感じる。極論だがもはや僕たちには娯楽として楽しむしかないコンテンツ、と思う。

僕たちの世代が、村上春樹を娯楽としてしか楽しめない理由の一つに、セックスがあるだろう。

よくある「村上春樹は性描写に頼り過ぎだからダメ」という批判ではない。

むしろ村上春樹はセックスを小説の中で効果的に使っている。ではなにがダメなのか。それは彼の小説内の登場人物がセックスを日常の一部にしすぎていることである。暇つぶしといったおもむきすらある。

彼の生きた時代、若者は三無主義などといわれた。無気力無関心無責任。戦後復興を果たし、同時に戦争を知らない世代が過半数になる。上と下の世代が噛み合ない、そんな中で若者は三無のセックスに逃げたのだろう。そしてそれを当たり前のようにかっこ良く、詩的にこなす登場人物に憧れた。

そんなあり方を敗戦を乗り越え、戦後復興に全力を尽くしてきた世代が受け入れるだろうか?否である。

では、現代の若者はどうだろう。

オタクという言葉がある。インターネットの発達もあって、現代の若者は好きなことに熱中しやすい。大人からみれば相も変わらず三無主義に見えるのかもしれないが、内なる炎は秘めている。セックスよりも楽しい暇つぶしがあるのだ。更にいえば暇ではないのかもしれない。

統計的にみても現代の若者は昔の若者に比べて性に無関心なようである。

そのような世代はやはり、「あたりまえの、挨拶代わりのセックス」に共感し得ない。

更に論を進めよう。

僕が読んだ村上春樹の小説の主人公は男ばかりである。よって女性は客体として描かれる。男性の視点から描かれる女性は、やはりセックスを当たり前の暇つぶしとしてとらえているような印象をうける。

しかしこれはエゴである。そうあってほしいという男性側の願望の現れだ。

淡白で、少し陰があって。煙草を吸うように、酒を飲むように、セックスをする。そんな青年像にかっこよさを見いだしたのが村上春樹世代なのだろうが、その男性主人公の目を通してみた女性像からは男尊女卑の香りが漂うのである。女性はたしかにすぐ求めに応じたのかもしれない。でもそれは苦渋の末の諦めの結果であり男のいう「やれやれ、と僕は思った」的なものではない。

ここにも時代背景は絡んでいると思う。70年代後半、キャリアウーマンという言葉なども登場し、男女平等が名実共に達成され始めた。女性が思い通りにならない時代。そんななか、村上春樹の小説では、主人公は淡白で、いったん女性が離れて行っても最後にはまた彼女の方から戻ってくる。

時代に受け入れられたのは、この過去への男達の憧憬もあったのではないだろうか。

 

最後に経済学部的とんでも理論を披露したい。

村上春樹のデビュー作「風の歌を聴け」で主人公と鼠という友人が会話するシーンだ。

「明日の2時。」

と鼠が言った。

「ねえ、女って一体何を食って生きてるんだと思う?」

「靴の底。」

「まさか。」

と鼠が言った。

 

靴の底。経済学徒にはなじみの深い言葉である。そう、「靴底コスト」だ。

インフレになると利子率は高くなり、人々は現金を預金しておきたいと思うようになる。現金をほとんど持たなくなると、しょっちゅう銀行へ行って預金を引き出さなければならない。この銀行に通いすぎて靴底が減ること(不便)をインフレーションの「靴底コスト」という。

そう考えるとこの一節、意味深だ。

女は金食い虫、会いに行くのは面倒だ。ととれないだろうか?

ここにも村上春樹の女性観は現れているのである。

やれやれ。